心の底にいつもヤマトはいた・・ニュース、HP運営、作品コメント、妄想(笑)などヤマトにまつわる個人的な記録・・への挑戦
久しぶりに「さらば宇宙戦艦ヤマト 音楽集」
なんとなく・・こちらのブログで書きたくなりました。
私自身の心の中がもやもやと、まだ不透明なのですが・・。
このブログ(『宇宙戦艦ヤマトとの旅の果てに』)を保留状態にしつつ、もう一つのブログ(『宇宙戦艦ヤマトに恋したとき』)では現実世界で巡り合った作品の感想や現在進行形のヤマト2199に対する想いを書いてきましたけれども・・昨日、久しぶりに、引き寄せられるように、「さらば宇宙戦艦ヤマト 音楽集」を聴いていましたら、その想いがさらにもやもやとふくらみはじめるのがわかりました。

単に、懐かしい、という思いとは違いました。
以前でしたら、「さらば」の映像や音楽と触れる時には、私自身がしっかりと元気な時でないと、と思い、かなり構えて接していたのですが、昨日はなぜか・・無意識的な内なる想いにいざなわれたのでしょうか・・実に淡々と、おちついたきもちで、自然体で、接することができたのが驚きでした。
私の中で、「さらば」に対する想いが変化したのかもしれません。
子供のころ、近年のHPにて書いたころ・・それからまた時を経て、私自身も変化してきたのかもしれません。それによって、受け止め方が変わってきたようにも感じました。

・・ああ、私とヤマトの旅は、まだ終わっていなかったのかもしれない・・

そんな想いがわきおこって、ふくらみはじめました。
HPに書いていた想いでは、「さらば」を咀嚼しきれていなかったように思います。
それが、昨日は、音楽を聴きながら、いろいろな想いがめぐりましたが、実に、しっくりと私の中になじんでいたのでした・・不思議なことでした。

・・かつてのヤマト作品への想いがいまだに変化し続けているとするなら、私とヤマトの旅はまだ終わっていないのでは・・

このブログは、ヤマトとの旅の途上にあり、その果てにあるものは?を思いめぐらせながらつづるものでした・・
もう一つのブログは、かつてのヤマト作品への想いがすでにある一定のところにとどまってしまいましたので、現在進行のヤマト2199の世界を追いつつ、他作品も含めた俯瞰的な視点から、そして、私自身の先々の果てからヤマトとのかかわりようを振り返ることのできるような記録としてしるしていくつもりでいましたが、どうも、まだまだ、かつてのヤマト作品への想いや私の中での作品の位置付けが変化し続けているようだと、視点のずれが生じそう(^^;)と思われ、やや混乱してきました。


「さらば宇宙戦艦ヤマト 音楽集」から感じたものが、私の中を揺り動かしたようでした・・かきたてられるような熱い思いのようでもありますが、とても静かで深いものでもありました。
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なつかしさと、初めて映画館で見たときの冷たい空気感と恐怖とが思い起こされた。
あのころ、絶対的な悪の存在を、子供ながらに肌で感じとっていた。どんなに美しい愛やあたたかい心のかよい合いがあったとしても、夢や希望を抱いていたとしても、それらがなんの猶予もなく、うちくだかれることがあるのだ、と、子供ながらに学んでいたように思う・・・。
人は生まれ死ぬ。その死を避けることはできない。理不尽な思いもたくさんある・・だからこそ、かよい合う心のありようが、輝かしく、美しく、こころうるおす思い出となるのだ。その大切さが、改めて身にしみて思い出される。
絶対的な厳しいものの存在が、「さらば」の根底にある。
この世界(『さらば』)をリメイクされるなら、その世界観が崩れぬようであってほしい・・人の世界とはかけ離れた神の世界に通じるような善悪の対立のようにも感じられる精神世界が描かれているような感覚を覚えたあのころ。だが、そこには、悲しきかな・・人の世界における「理不尽さ」が存在するのである(人の心に残る切なさ、という意味で)。お話の結末が、観客にとって「正」であるヤマトメインクルーたちの喪失、であるから。
そんな「さらば」という作品の強いイメージが、「白色彗星」から感じられた。

「序曲」からして、何度も聴いた楽曲でありながら、今改めて聴くと、新たな発見も多く、感じ方も変わっている。「さらば」の要素を凝縮したような楽曲。聴き始めから、私の中の何かが変わっていることを感じた。構えるのでなく、身をゆだねる私がいた。
「白色彗星」では、かつての絶対的な作品である故の存在感、宮川彬良氏との宿命的な結びつきを感じ、その次に開かれる華やかな旋律は一見明るい未来への希望のように感じられつつも(私も年を経ていろいろ経験してきたためか、同時に)、最先端にとびつき、古きを軽んじる(否定する)風潮をも容易に思い起こさせてくれて(『アンドロメダ』)、かつての戦いの日々を思い起こしては、ただの懐かしさにとどまらないさみしさと、古きを顧みない世代交代の波の存在を思い起こさせる(『英雄の丘』)。
ここまでだけでも、いつの時代にも共感しうるテーマが織り交ぜられていることがうかがえる・・「さらば」の世界は、人生の旅を表しているようにすら感じられてしまう。子供のころ、HPに書いていたころ、とはまた異なる想い。
音楽を聴きながら、私とヤマトの旅は終わっていなかったのか・・?という思いが膨らんだ。

思いもよらぬ奇襲に遭い、人生の岐路、出会いと別れ、宿命的な道筋を感じずにいられない・・さらには、亡きものへの弔いの想いも感じる(『デスラー 襲撃』『デスラー 孤独』『デスラー 好敵手』・・ささきいさおライブにて、歌が聴けたことは今日のための伏線だったのだろうか、と思えてしまう)。
最後の決戦を前にして、生死をかけた「生きるため」の戦いなのだと思われた・・たとえ「死」が見えていたとしても、生き抜きたいからこそ、戦うのである。人生においては病に倒れ、治る見込みがないとしても、希望をもって挑む姿勢にも似ているではないか・・もてる力をできる限りつとめて(『都市帝国(ガトランティス)』)。
このころ、ズォーダーや沖田艦長と古代の対話・・絶対悪への宣言は、こころの中の大切な亡き人への語りによって、自身を奮い立たせることにつながり、自身のような「個の生命」を人類という「大きな生命」の流れへ、という俯瞰的な視点から、「大きな生命」を生き残らせるために、「個の生命」を賭ける決断をするのである(古代のクルーたちへのセリフがまさにそれである・・これはかなり俯瞰的な神的視点に近いものかもしれない『現実に生きる人々の生命と永遠に生きる生命』)。
自らの先がないと思えば(この場合、絶対悪の存在がある限り、自身をはじめ地球の存続はない、と思える展開だった)、できる限りのことはしておきたい、後の世代、生き残る人々のために何かできることを・・と思うのは、ありえないことではないはず。理不尽な、悪との遭遇、出逢った不幸はあったにせよ、人は、いつかは何らかの悪(病にしろ老いにしろ、生命の存続の危機にかかわることも含めて悪、ととらえた)によって死ぬのである・・その「『個の生命』は限られた生命であること」を受けとめ(受け入れ)、限られた「個の生命」をいかに生き抜かせるか、ということを描いた作品なのであろう(古代の沖田(おそらく自身の中に在る沖田)との対話、クルーたちへのセリフにおける、生命の解釈のありようによって(『個の生命』と『大きな生命』)、自身の心も救われたのだろう)。
生死のぎりぎりのところで描かれたドラマであるゆえに、胸に迫る想いは絶大なものとなる。

「まず死ありき」ではないのである。
人生の戦いもそうではないか・・人はいつか死ぬけれども、死ぬために日々努力して活動しているわけではないはず。先々に「死」はあるけれども、「生き抜くために」日々懸命に過ごしているのであるはず。
作品のテーマの根底にあるものを、とりちがえないでほしい、と思いました(とりちがえられないようなよい表現のあり方がみつかるとよいのかも)。
進んで死にに行くわけじゃない、生きるために(『大きな生命』の流れを存続させるために)行くのだ・・まさにそれは、古代のセリフそのままではないか。

どの楽曲も、寸分も許しがたいほどの鬼気迫る気迫を感じる。
完成度の高い、孤高のイメージが醸し出されているように思われた。
それは、作品の精神そのものが思い起こされるからでもあろう。
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この作品世界を、やはり大切にしていきたいものです。
私個人の偏った見方ではあるかもしれませんが、この作品世界の根底にある「芯」の部分を具現化されるであろうと信じて(『さらば』のみの世界なら、の場合です。『ヤマト2』世界はまた異なりますので・・)、新作「ヤマト2202」を見たいと思いますし、期待しています。

注:感じるままに書き始めたとりとめもない文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。
なお、『さらば宇宙戦艦ヤマト』を最近見ていませんので、細部の古代のセリフなど、表現が異なりミスがありましたら、申し訳ありません・・近々、ひさしぶりに見てみたいと思います・・ということは、何か気になる点などありましたら、またこのブログで書くことになると思いますので・・『更新保留』にしていましたが、状況によっては、『更新再開』することにするかもしれません
^^;)
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